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ゼミレポート課題 グループ発表 2010年度前期

本田瞬

 

 

2005、2006年は、格差についての議論が多く起こった年であったといえる。

まず流行語から見ると、2005年の大賞は、ライブドア堀江貴文社長がその負けず嫌いな性格からフジVSライブドア騒動の中で連発した「想定内(外)」。2006年候補語にはそれぞれ「下層社会」「勝ち組・負け組・待ち組」「下流社会」「貧困率」が入っており、2006年のトップテンに「格差社会」が入るなど、格差に対する社会の関心が伺えた。これまでの「一億総中流」が崩れ、所得や教育、職業などさまざまな分野において格差が広がり二極化が進んだとのことで、市場原理を重視し、改革・規制緩和を進めた小泉政治の負の側面との指摘もあったが、具体的にどのような格差があったか。

 

まずは非正社員と正社員との格差である。

賃金の面では、正社員男性の生涯賃金が約2億3200万円、平均年収は40代後半にかけて700万円弱まで増加していたのに対し、パート・アルバイト男性の生涯賃金は約6300万円、平均年収は30代で頭打ち、ピーク時で200万円弱となっていた。

公的年金、雇用保険といった制度の面においても、正社員は国民年金、厚生年金、企業年金を受け取ることができるが、非正社員は国民年金しか受け取ることができない。短時間、短期間の非正社員には雇用保険加入の義務が適用されず、職業訓練給付金、失業保険給付金などを受け取ることができない。これらの格差はその人生に格差をもたらす。20代後半でフリーターを経験した男性の5年後の婚姻率は28.2%であるのに対して、正社員は48.3%である。これには、教育費の問題が関係している。結婚して子供を授かりその教育を考えたとき、幼稚園(公立)から大学(国立)までで約990万円、月に平均6万円以上の出費が見込まれるのである。その他にも、貯蓄、退職金といった老後の心配も非正社員は正社員に比べてとても大きい。

 しかし、正社員間にも格差は見られる。業種間、企業間の賃金格差は著しく、東証1部上場企業の業種別平均年収ベスト5社の平均と、ワースト5の平均の差は、電気・ガス(業種内平均年収720万円)では約154万円、卸売業(業種内平均年収624万円)では約703万円、情報・通信業(業種内平均年収691万円)では918万円にのぼる。企業間格差の原因は、高年齢層の賃金カーブ設定の差にある。

また、企業内格差も著しく、97年から03年にかけての給料構成の変化をみると、特別給与(賞与、一時金)においては25.4%から22.0%(年22.3万円減)、所定内給与(基本給(年齢給+職能給)、諸手当(家族手当、役職手当等))においては68.3%から71.4%(月7000円増)となっており、所定内給与の構成の変化は生活関連手当低下、奨励給増加である。

90年代前半〜半ばに管理職を対象とした「年棒制」が導入され始め、90年代中盤、一般会社員について年功賃金を是正する動きがおこり、90年代終わりごろから成果主義が台頭。04年からは一般会社員層にも成果主義賃金の導入が相次いだ。企業内格差の原因は、「成果主義」へのシフトとみることができる。

 

次に、格差の固定化について考察する。若年層では格差が拡大し、02年、15〜19歳の完全失業率は12.8%であった。15〜24歳の雇用者中に締める非正社員の割合は男性3割、女性4割(9年代初頭は1割前後)。フリーター、ニートの9割程度は高卒、高校中退者である事実は教育格差、家庭の経済格差、格差の継承を示唆する。20〜24歳にフリーターであった人が5年後もフリーターである割合は男性で58%、女性で57%30〜34歳にフリーターであった人が5年後もフリーターである割合は男性で75%、女性で70%であった。30代になると、フリーターから抜け出せないのである。単純作業の多い非正社員の仕事は技能の習得・蓄積が難しく、正社員の職を得ることは難しいと考えられる。

若年層で格差が拡大し固定化された場合の問題点は、大きく分けて1.機会の不平等による労働意欲の低下→中長期的な経済の潜在成長率の低下。2.貧困層の増加による社会不安の高まり。3.出生率の一段の低下。4.マクロの所得が回復しても消費の回復が抑えられてしまうこと、である。

 

次に、公務員と民間における格差についてである。官民の賃金格差について、04年8月、人事院勧告が6年ぶりに前年水準維持の給与勧告を行った。そこで「官民較差は事実上なくなった」としているのだが、人事院が行う比較対象調査の対象には、中小企業層が含まれていない。中小企業の中核層の賃金相場は36万円台、公務員平均月給は40万円超である。人事院勧告に、実際に支払われている特殊手当や厚遇等のどこまでが民間に準じているかは不明であるし、賞与も含めて比較すると、民間職員と官公職員の賃金差は90年から10%以上広がっているのである(それぞれ90年を基準とした場合。また、非正社員要因を排除するため世帯主についての比較)

 

公務員の中にも、地方公務員と国家公務員との間に格差が見られる。地方公務員の全職種における平均給与月額(全手当てを含む)は443,988円、国家公務員の全職種における平均給与月額(全手当てを含む) 400,402円であり、大阪市を例にとると。職員厚遇策@職員の確定給付型年金に掛け金の2倍以上を公費負担し、退職後の400万円受給できるようにしたヤミ年金・退職金、イージーオーダーのスーツ、シャツの支給、「二重取り」の疑いがある特殊勤務手当の支給、カラ残業、資格対象外職員にも管理手当を支給などが見られる。

 

ここで、2005、2006年におけるエッセイ、新聞、雑誌の記事などで格差について書かれたものを参考に格差について考察する。

 

 まずは、所得格差についてである。これについては、未婚率との関連で書かれた記事が多かった。結婚に当たって、女性は経済的責任を男性に求める。しかし、女性を満足させる経済力をもつ未婚男性の数は、1975年以降徐々に減っていく。一方、期待する生活水準は上昇する。「夫の収入」が問題なのである。専業主婦志向はそれほど弱まってきているわけではない。積極的に仕事をしたい女性が大幅に増えているわけではない。現実派ニューエコノミーの浸透によって、労働は二極化し、派遣やアルバイトなど定型的な仕事は増え、趣味的仕事では十分な収入を稼ぐことは難しい。結婚後の家計を支えるのは夫の収入である、ということを、意識的にも現実的にも現代日本においては前提としなくてはならないのである。若年女性の就職率上昇は未婚化の結果であって、原因ではないのでは、という意見があった。結婚後、夫の収入で家庭生活を支えることが前提となると、問題になるのは、女性側が期待する収入の程度と、男性側の収入の見通しなのである。若年男性の収入がリスク化(将来予測が不可能)し二極化(格差拡大)していることが、近年の未婚化に拍車をかけている。経済的即位面から見る限り、多くの女性は、一定以上の収入を稼ぐ小数の男性から選ばれる立場になっている。男女の出会いを増やせば結婚が増えるという希望的観測があるが、それでは、構造的ミスマッチはなくならない。女性から見れば、経済的に期待通りの結婚生活を保障できる収入を稼ぐ未婚男性の絶対数が減ったといえる。人並みの生活水準をあきらめるという選択肢は、一度豊かな生活を味わった今の若い人にはない。子育て、教育にはお金をかけたいと思っている人が大多数なのである。そうなれば、女性が男性に家計を支える責任を求める、という意識をかえるしかない。実際、少子化対策に成功した先進国は、育児期の女性が働いて夫婦二人の稼ぎで豊かな生活を支えるというパターンが定着している。女性が働きやすい環境を作ることは、女性のためであると同時に、収入が不安定化している若い男性を結婚しやすくする切り札なのである。そして実際に、結婚相手に専業主婦を望む男性は、女性以上に少なくなっている。女性の意識改革が求められる時期になったのである。

 またある記事では、二十代女性の専業主婦になりたいという、いわゆる専業主婦願望が、以外にも年々上昇しているが、一方、〈負け犬〉現象があらわすように、若年女性は事実として非婚化しているとしている。二十代女性の非婚化を、“彼女たちが結婚を望んでいないから”という理由で片付けられないことを、この矛盾は示している。そもそも女性の就職が難しい不況下、仮に就職できても非正規社員、という時代に、今の二十代女性は働き始めたのである。彼女たちにとって、最も大きな“時代効果”は“不況”であり、これによって、労働に対する大きな失望感を持つに至った。労働への失望感こそが彼女たちが専業主婦になりたいと思うようになった最大の原因と考えると、彼女たちの専業主婦願望は、昔の二十代女性にあった“専業主婦になるのが女の幸せ”という考えとはまったく違う。今の二十代女性は、“悪い労働条件で働くよりも、専業主婦になるほうがマシ”という両極的な理由から、専業主婦になることをのぞんでいる、となる。実際には、彼女たちが専業主婦になるためのハードルは高い。“不況”という時代効果により、先に示したとおり男性の収入も下がっているので、若年層の共働き率は上昇している。女性の労働が、選択肢の一つから、強制労働へと変貌している中で“専業主婦になる”ということは、“給料の高い旦那さんを見つけた”ことを意味する。ゆえに専業主婦という職種は、いまや特権階級にだけ許されるステイタスにさえなっている。かつて日本では、年齢という数字が大きく機能しており、未来の自分をある程度想定することができた。しかし、数字に規定されてきたライフステージが崩れる。日本を襲った未曾有の不況という時代効果が、日本にそれまであったシステムや常識・固定観念を崩し、この国から“年齢効果”を消滅させてしまった。“女性に結婚適齢期はない”と答える二十代女性は1996年から減っていたが、2004年、突如として“女性に結婚適齢期はない”と回答する二十代女性が増えた。このように、“年齢効果”の喪失減少は、二十代女性から“結婚適齢期”というプレッシャーを奪ってしまったのである。大人や親の目がたくさんの子供に分散されていた“団塊ジュニア”とは違い、大人の目を一極集中に浴びて育った二十代女性たちは、親からも過剰な愛情を受け、べったりと手間をかけられて育ったので、“団塊ジュニア”よりも親との関係が良好である。“団塊ジュニア”は、一歩、学校など家庭の外に出れば、人数の多さから生じる同世代間での激しい競争が存在した。それに比べると人数が少ない分競争も少なく、親に甘やかされながら、自由にのびのびと育ったという特徴を有する二十代女性たち。社会全体において子供が少なかったので、親から十分なお金をかけられて育ったため、経済的に豊かであることは、彼女たちの生活の前提条件になっているのである。未婚で仕事をしながら親と同居する女性が、最も所得主意順が高い。彼女たちにとって、見込んで仕事をしながら親と同居するのが、自分が育った生活水準を下げない最善の方法なのである。しかも親と仲が良い世代なので、いくつになっても親と同居することに、あまり抵抗がないといえる。未婚で仕事をしながら一人暮らしするのと、結婚して共働きをするのは、所得水準にあまり差がない。そのため、共働きせざるを得ない男性と結婚しても、結婚する経済的メリットは、あまりない。まして、専業主婦(肩働き)になってしまうと、かなり高所得の夫を見つけない限り、惨めな経済状況になってしまう。つまり、経済的に考えると、結婚しない方が、自分で使えるお金も多く、豊かなのである。彼女たちにとって、働きながら家事をしたり(共働き)、夫のために家事に従事する(専業主婦)よりも、親の下でのんびり自由を教授する方が心地よい。今の二十代女性は、親との快適な関係を手放すことができず、非婚化している、と見る。男性においても、かつての二十代男性とは違い、労働上環境が固定しないので、当然、収入も不安定である。そのため、定期的にお金のかかるもの(固定費)は避けたい、という気持ちを持っている。親のすねをかじるニートも、一人暮らしという固定費から逃げていると見ることができる。継続して駐車場代などの維持費がかかる車は持たない、保険に入らない、新聞をとらない、高い基本使用量金がかかる固定電話を持たない、そんな二十代男性の増加、である。二十代男性の非婚化が進むのも、子供を持たないのも、まさにこの“脱固定費”願望から発生しており、二十代男性にとって、結婚さえも固定費と考えられるようになっているのである。ある二十代後半の女性の声に耳を傾けてみると、彼女は“不況”という“時代効果”を受け、労働に失望しているので、専業主婦になりたがっているように思われた。既婚の友達を羨ましいと思っており、専業主婦願望が強いので、憧れを抱いている。“時代効果”により、専業主婦という職業は、彼女にとってステイタスになっているのである。彼女は現在の彼氏を評価しているが、彼と結婚せずに、非婚を選択している。独身だと責任もないし、稼いだお金が字通に使えるうえに、実家にいると親に甘えられて楽だからである。親と仲良しという“世代効果”を持つ彼女が、経済的にも精神的にも豊かな実家生活を手放せない様子が見られる。彼女は彼氏のことを評価してはいるものの、“もっと良い人がいるんじゃないか”と思っており“年齢効果”の喪失、減少により、二十代女性に“結婚適齢期”がなくなっているので、結婚をあせらず、自由を享受しながら、のんびりと理想の相手を探しているとも言える。

 

次に、フリーターやニートについてである。「ジョブカフェ」についての記事を参考にしたい。ニートやフリーターの存在は、大学新卒の4割が就職できない現状とも無関係ではない。就職先が決まらないまま卒業して、ニートやフリーターになってしまうケースが多い。彼らの多くが“やりたい仕事”や“志”を口にするが、その反面、真剣に探し求めようしないことも共通している。ニートやフリーターは、なぜ就職しないのかについて、難しい理屈はなく、なにかきっかけさえあれば仕事に就き、それなりに満足してしまう。そうだとすれば、問題はそのきっかけにある。「ジョブカフェ」というものがあるが、その最大の特徴は、細かなカウンセリングに重点をおいていることである。ハローワークは就職斡旋を主たる目的にしているが、ジョブカフェは単なる斡旋ではなく、若者の就職に対する姿勢を変えて“働けるようにする”ことを大きな目標にしている。そもそも、“これが天職”と思える仕事に就いている人は、世の中のかなり少数でしかない。ジョブカフェでは、天職探しでなく、まず就職することが重視される。せっかく決まったのに、“そんな給料が安いところで働くのか”と父親に言われて就職しなかった若者のケースがある。明らかに公務員向きの性格ではないのに、公務員にこだわって就職できない者もいた。理由を尋ねると、親が希望しているからとの返事が返ってきた。親が、子供の実力以上のものを期待してしまい、子供も、そういう親の呪縛から逃れられない構図が見える。現実を見ようとしないのは、子供だけではないのである。需要の改善だけで問題が解決するのであれば、ヤングハローワークで事足りる。にもかかわらず、ジョブカフェのような存在が必要とされているのは、働くことへの一歩を踏み出せない若者が増えているからである。彼らは、ただ仕事を紹介してもらうのではなく、背中を押してくれる存在を必要としているのである。就職という現実を目前にしてから、あわてて仕事について教えてみたところで、所詮は付け焼刃でしかない。生きるために働かなくてもよくなった豊かな時代において、本当に働けるようになるためには、もっと早い時期から仕事について考えることが重要である。大学にしても、就職を意識したカリキュラムづくりに力を入れているところが増えている。ただ就職するためのノウハウを教えているにすぎないのであれば、根本的な解決策にはならない。本質を踏まえないまま就職しても、壁に当たってしまうと自分は何をしたいのかというところに逃げ込むことになり、それでは就職前に逃げるのか、就職してから逃げるのかの違いだけで、大差はない。それで安易に仕事をやめる若者が増えれば、働かない若者の数が減ることにはならない。もっと、根本的なところからの見直しが必要なのである。早い時期に、何をしたいのかを十分に考えさせ、逃げるための口実ではなく、現実を見据え、正面から徹底的に取り組む機会を与えることである。そして、そこから生まれる疑問や迷いに、社会として応えていく体制を整えること。教育現場に求められているのは、そうした姿勢なのである。

 

次に、「キャラ」について。これには、小泉内閣とホリエモンの話題を柱としたい。2005年9月の総選挙において、自民党の圧勝を支えた有権者には、三浦展が用いる意味での“下流”に属する若者たちも多く含まれている。すなわち、食うに困るほど貧窮しているわけではないが、低い所得水準の生活に安住したまま、上昇しようという意欲をあまり持ちあわせない人びとのこと、である。電通総研が行った2005年の調査では、自分の生活程度を“中の下”や“下”と考える人々が大幅に増えていると同時に、その“生活に満足”と感じる人々も過去最高の多さとなっていた。内閣府が行った国民生活選好度調査でも、格差を是正すべきだと考える人びとは現象している。このような傾向から推察すると、選挙の結果を決定付けたのは、勝ち組に対する有権者のルサンチマンの強さではなく、むしろその弱さだったようである。選挙の勝敗を決めたのは政策の是非ではないのである。論理構成や文脈はあくまでも二義的であり、登場人物たちのキャラがたつかどうか、その違いこそが明暗を分けたのである。政策は、キャラの魅力を担保とした候補者の自由判断に委ねられた。“がんばらずに良い結果を出すほうがかっこいい”“何も考えずに行動するほうがかっこいい”“挫折しかけた道でさらに努力を続けるのは見苦しい”が、若者の基本的な価値観であった。この三つの価値観の背後に共通してあるのは、“生まれもった素質によって人生はすべて決まる”という発想である。セレブたちの人生が自分のそれとは何の接点も持たないものだとしたら、彼らの生活ぶりを外部から眺めることは、あたかも映画や演劇を鑑賞するようなものとなる。そして、どうせスペクタクルを見物するのであれば、勝ち組に感情移入したほうが楽しみも倍増するであろう。その見世物がRPGの様相を帯びているなら、なおさら華々しく強いキャラの側についたほうがゲームとしては格段に面白いに違いない。自分の人生の行方とは関係ないのだから心置きなくゲームに興じることができるし、もしそうならば、権力には暴走してもらったほうが、むしろ気分も盛り上がる、というものである。これこそが、“下流”に位置するとされる若者たちが“小泉劇場”に期待し、セレブ候補者たちに送ったエールの意味ではなかろうか。90年代以降の学校では、“何をやっても無駄だ”という生徒と“がんばれば必ず成功する”という生徒との間で、いわば意欲の二極化が進んでいる。この二極化傾向は、じつは“生得的属性によって人生は決まっている”という感覚をどちらも同じ根として持っていることを物語っているのではないだろうか。規制の社会体制に対して不満をいだき、現状を変革したいと願うとき、大衆は革新的になる。その原動力は、ルサンチマンである。一方、現状にそこそこ満足しており、その生活を失いたくないと考えるとき、大衆は保守的になる。生活保守主義と呼ばれる近年の傾向は、大衆からルサンチマンが失われたことを物語っている。彼らが部外者的な視点に立ったまま批評家的なスタンスでものを勝たれたのは、たとえ“下流”でもそこそこの生活を享受してきたからである。ところが、その前提条件も、いまや徐々に崩れつつある。とりわけ地方の若者の雇用条件はきわめて厳しくなっており、これまでの“下流”生活を維持することさえ困難になりつつある。しかし、社会動向や人間関係をキャラのパフォーマンスとして捉える限り、そのキャラを好きか嫌いかという感覚的な判断だけが優先され、その背後にある対極的な論理や文脈は認識から排除される。“そういうキャラだから仕方ない”といわれてしまえば、そこで思考は停止され、その背景にまで遡及する余地がない。これから訪れるに違いない新たな困難を克服していくためには、この陥穽をどこかで乗り越えねばならない。

自作自演的メディアとしてのテレビの側面に焦点をあててみる。テレビそのものが自作自演的メディアであり、そしてその自作自演性は、視聴者が有するリテラシーによって支えられるのである。現代では、自作自演性は、プロレスのような視聴対象の属性ではなく、視聴者のリテラシーを構造的に組み込んだテレビ的コミュニケーション自体の属性になっている。逆に言えば、このコミュニケーションの文法さえ踏まえれば、世の物事はことごとく、自作自演の快楽を波及させるものになりうるのである。ここ数十年の間に、政治もまた、そのようなものとなった。2005年9月の総選挙での自民党の圧勝劇は、その流れのひとつの到達点とみることができる。他方で、そうした「自作自演的コミュニケーション」の構造に、変化が起こる。放送システムの将来像をめぐる話題には事欠かぬ一方で、視聴者という存在の社会的意味合いに注目する議論はこの間あまりなされてこなかった。いったい視聴者とは誰のことなのか。そして、視聴者になにがおこりつつあるのか。テレビの主たる文法になっているのは、キャラに関わるそれである。その人の特徴や属性のある側面を取り上げて誇張したものがその人間のキャラである。ここで重要なのは、キャラとは必然的に破綻するものだ、という点である。要するにキャラとは、キャラクターと“素”の間に適当な均衡をとったところに成り立つものに他ならない。今、バラエティやワイドショーなどを中心に展開され、さらに報道などを含めたテレビ全般に浸透しているのは、そうした意味でのキャラのゲームなのである。視聴者のリテラシーは留保つきの何でもありの空間を作り出すための要素として、番組の中に構造的に組み込まれており、その意味でそこには、リテラシーの作動をめぐって製作者と視聴者の間に暗黙の了解が存在する。したがって、そこに形成されているのは、そのような暗黙の了解を基盤とした共同体的空間である。ただそれは、集団主義的性質を持つ伝統的共同体のようなものではない。それは、言うならば、笑いと不可分な共同体、つまり、内輪ウケの空間である。しかもそれは、外に対して自らを閉ざすようなものではなく、むしろ視聴者のリテラシーという外在的視点を存在の前提として組み込んだ、内輪ウケ空間である。リテラシーの組み込みは、実は微妙な均衡の上に成立している。なぜなら、そのように構造化されることは、リテラシーが視聴者一人一人の行使する具体的権利ではなくなる可能性を必然に伴うからである。それは、逆に言えば、ここの視聴者に内蔵され行使されていたリテラシーが、視聴者という主体から離脱して一種のオートマチックな機構となり、他人事化しはじめるという可能性である。リテラシーを支える視線の本質は、自作自演の構造に対応して両義的なものであり、キャラに対する当事者的な愛着として傍観者的な批評性が共存している。したがってそれは、必然的にキャラのゲームの裏側にある行為を見抜こうとする思考を生み、同時にそこには自分もスタッフとして仕掛ける側に回りたいという欲求を伴う。ここで重要なのは、そのようなスタッフのいる裏側も決して隠されたわけではなく、むしろ表面化し、“ギョーカイ”として娯楽化されたという事実である。その意味で、自作自演的コミュニケーションは、自ら屈折を重ねることで、自己言及的な構造の安定を獲得していった、と言える。そこでは視聴者とは素人としてキャラのゲームに登場し、可能性を高めるように見えながら、最終的には不可視の存在としてあり続けることをコミュニケーション構造の維持のために求められる存在である。つまり、自作自演的な空間の中で唯一自作自演的でなかったのはその空間自体を支える視聴者のリテラシーであり、それは誠実なものとして、律儀に行使され続けなければならないものなのである。自作自演の構造が屈折し、多重化したものになればなるほど、キャラのゲームの背後に、視聴者は無所属の個人であり続ける可能性を獲得する。そこには、テレビと不即不離の関係を保ち続けることで、積極的に無所属であろうとする視聴者の姿がある。自作自演的コミュニケーション構造そのものを対象化する非人称的な視点が仮構されるとき、リテラシーの講師もまた、自作自演的な行為、すなわち、実は内輪ウケ空間と通じ合っていながら、あたかも外在的な無関係の位置にいるかのように振舞う行為となって映るだろう。リテラシーの自作自演とは、このようにして加工された日人称的な視線がリアルな存在感を帯び始める自体を意味している。得意なキャラ、というものが存在する。ライブドア社長、堀江貴文に見えるように、企業家堀江に特徴的なのは、内輪ウケの空間をまったく顧慮しない。だが他方では、彼はホリエモンと呼ばれるキャラとしての自分を否定するわけではない。彼はキャラ化されることを拒むわけではないが、キャラ的に振舞おうという意思をほとんど感じさせない。したがって、そこに“素”が露出することもない。結局それは、堀江がむき出しの個人、というキャラになっているということである。それはキャラと素の間に落差がないという点で、従来のキャラの定義には基づかない特異なキャラである。ただしそれは、堀江という人間が特別ということではなく、テレビ界全体に同様のじたいがおこりつつあるからに他ならない。その一端は、個人が観察力や発想力など能力という要素に還元されるということである。そこでは当然、格差が成績という明瞭な形になってでてくる。それは個人の能力というその人自身にしか原因を帰せられないようなのものの差として解釈される。つまりその前提にあるのは誰もがむき出しの個人というキャラだ、ということである。したがってその格差は、そのまま固定された勝ち組や負け組に直結するわけではない。なぜなら、どちらの組になるにしても、それは共同体に所属することであり、むき出しの個人というキャラの定義に反するからである。これまでの日本社会は、自作自演性を最終的にテレビという空間に閉じ込めることである程度安定したコミュニケーション構造を保っていた。だが、現在の日本社会に兆候として見て取れるのは、そうした自作自演性の限定が事実上存在しなくなり、自作自演であることを指摘すること自体も自作自演的に見えてしまうような事態である。つまり、目の前で起こっていることが自作自演なのかそうでないのかを区別しようとすること自体が、無駄な行為になってしまうということだ。社会を“あることにしていた”リテラシーの視線に対する自作自演の疑いが根本的に消え去ることはない。それは、社会があるのか、という問い自体が無効化されてしまう場所と紙一重に見える。

 

次に、グローバルな視点で見たときの格差についてである。

二つの具体例がある。まずが、旧ソ連など共産主義体制の崩壊。直後から資本主義や市場メカニズム、民主主義の優位性と、その拡がりによる収束的な世界観が楽観的に唱えられた。共産主義体制崩壊の主因が統制経済システムの行き詰まりにあると一般的には理解されていたから、当然だった二つ目。同じく旧共産主義諸国。ただし、崩壊後。旧体制が瓦解した国々には、一千九の経済学者や国際機関エコノミストが政府諮問団として送り込まれ、市場メカニズムを最大限に活用する方向で、あらゆる種類の経済構造改革が、一気に実施された)結果は悲劇的だった。ロシアのGDPは共産主義時代より40%も落ち、貧困層は10倍に膨れ上がった。その他の旧共産主義諸国も、軒並み主要な経済指標は暴落し、貧富佐賀爆発的に拡がった。ただし、落ち込み具合や回復のスピードは、国ごとに大きく異なった。この二つの例を持って、二つの教訓を導き出すことができる。その一。市場メカニズムを通じた自由競争を積極的に活用しない限り、経済の持続的発展は望めないということ。共産主義国家の経済破綻がそれを示した、その二。同じような経済システムを導入しても、結果としてのGDPや貧困率などは、国や時代によって大きく異なってくる、という事実。どのような国にも好パフォーマンスをもたらすような、理想的で画一的な経済システム、すなわち、グローバルスタンダードなど、存在しない。こうした市場原理主義的な改革機運の高まりとその反動は、歴史的に見て新しい事象というわけではない。グローバリズムと反グローバリズム、市場経済と非市場的な組織・共同体との相克は、過去に何回も繰り返されてきたのである。90年代以降、新自由主義的な構造改革は、わが国を含め、さまざまな国において導入されたが、経済指標を見る限り、現時点においては国によってその成果が大きく異なる。解釈は、論者によって争いがある。よりコンセンサスを得るのは、市場メカニズムを積極的に活用した構造改革は貧富の差を拡大する、という点である。もちろん、格差拡大をもって、新自由主義的な構造改革の意義を直ちに否定したり、その必要性を説く学者を批判したりすることは適切でない。もっとも極端な新自由主義派の経済学者でも、所得の再分配の必要性は認めている。ただ、所得の再分配機能を決めるのは、政治の場だ。このため、多くの経済学者や国際完了は、経済格差の是正や公平性を確保する方策を考えるのは自分の仕事ではないとして、効率性の極大化だけに神経を注いできた。最近は、政府を連関させて分析し、さらに両者を対立するものとしてではなく、補完するものとしてとらえる考え方が拡がってきた。経済が動けば政治も動く。経済のパフォーマンスは、市場と政府の相互作用によって定まる、とする考え方である。彼らの分析結果を敷桁すれば、経済のグローバル化が進み、構造改革により市場の開放度が進めば進むほど、政府は市場からの影響を緩和するため大きくなる、という、一見、逆説的な関係が成り立つことになる。国際会議などでここ数年、国家間の経済格差が大きな議題に浮上しているのは、各国に埋め込まれた民主主義プロセスを通じて、ある程度、自動的に修正される国民間の経済格差に比べ、国家間の経済格差を是正する制度的枠組みが、いまだ存在しないからである。経済主体間の強調や信頼を、できるだけ低いコストで確保するために必要となるのが、制度や慣習、規範、あるいはその組み合わせである。にもかかわらず、新自由主義的な発想だけに頼り、各国の歴史などを無視して一律的な市場経済メカニズムを移植しようとすると、競争が一時的に増加しても、強調のメカニズムが崩壊する危険がある。そうなった場合、その国の経済の取引コストはかえって高くなり、経済主体間の相互不信が高まって経済全体の効率性も落ちてしまう。市場経済と非市場的制度・組織の、どちらか意っぽいの活用を絶対視する経済政策は破綻する、という真理を考慮にいれなくてはならない。おのおのが競争と強調の最適点を模索する必要がある。そのためには、単に自由化を追求するだけではなく、新たなルールや規範を醸成することが重要である。適切なルールや規範が醸成されるためには、政府の、上からの改革だけでなく、多くの企業や人の意識改革と、試行錯誤の繰り返しが有益となる。ルールや規範の醸成を伴った新の構造改革の実現には長い時間がかかるが、その間、そうした反動を抑えるためには、民主主義プロセスの適切な運用を通じ、政治と経済とのバランスをきめ細かにとっていくことが求められる。極端な理論や主張は、単純でわかりやすいがゆえに短期間で熱狂的に流布しやすい。しかし、過去に人類は、市場と非市場との微妙なバランスを模索する過程において、単純かつ明快な論理や政策に乗って一方向に暴走し、経済や政治を破綻させ、その反動からもう一方向に逆流するという経験を、歴史上何度も繰り返してきた。あいまいな領域の中で最適な点を見いだす、地道かつ緻密かつ退屈な作業が、なにより言論と政策には求められている。

 

 

参考・引用

・「フリーターがもたらす「人生格差」」,『エコノミスト』,20059月号,芥田知至

・04年,樋口、酒井,「フリーターのその後;就業、所得、結婚、出産」

・総務省「家計調査」

・02年文部科学省「学生生活調査」、「子供の学習非調査」を基に筆者試算

・04年,樋口、酒井,「フリーターのその後;就業、所得、結婚、出産」

・「政府は否定するがそれでも所得格差は拡大している」,『エコノミスト』,20063月号,橋本択摩

・04年の東証一部上場企業の有価証券報告

・「「勝ち組・負け組」の差はどんどん広がっている」,『エコノミスト』,20058月号,森剛志、浦河邦夫

・厚生労働省「毎月勤労統計調査」「勤労条件総合調査」、中央労働委員会「賃金事情調査」を基に試算

・「「納得できる格差」ならば不満は出ない」,『エコノミスト』,20052月号,山田

・「サラリーマンの「報酬ルール」はこう移り変わってきた」,『エコノミスト』,20058月号,荒川創太

・論座2006CHUOKORON2005.12

結婚難に陥る男の事情、女の本音

山田昌弘

・論座2006.2若年労働の現場 特集

ルポ 働き方がわからない ジョブカフェちばに集まる若者たち

前屋 毅

・世界SEKAI2006.2

キャラ社会の構造 「負け組」はなぜ格差拡大を容認するのか

土井隆義

・世界 SEKAI 2006.2

特集 現代日本の“気分”―どこへ向かうのか

「自作自演する社会」の臨界 テレビ的コミュニケーションと視聴者性の変容

大田省一

・論座 2005.6新自由主義の憂うつ

構造改革批判を乗り越えて

加藤創太